フラメンコ、闘牛、ドン・キホーテ、アルハンブラ…われらが思い浮かべるスペインの 「イメージ」 の多くは、19 世紀にこの国を訪れた旅行者たちによって作られたものでした。
そうしたイメージをかたちづくり、流通させた重要な媒体が、複数刷られ簡単に持ち運びができた版画です。 |
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本展に出品される国立西洋美術館の所蔵品の多くは、近年新たに収集した作品です。 これまで当館はゴヤとピカソ以外のスペイン版画をほとんど収蔵していなかったため、2015
年以降、その空隙を埋める収集活動を続けてきました。 |
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会期: 2023 7/4 [火]~ 9/3 [日] 展覧会は終了しました。 |
'2023 7_3 「スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた」 のプレス内覧会の館内風景の取材と、図録・資料などからの抜粋文章です。 |
No.0 ギュスターヴ・ドレ(1832 年、ストラスブール-1883 年、パリ) 《シエスタ、スペインの思い出》 1868 年 油彩/カンヴァス 2781 x 1918 mm 国立西洋美術館、東京 |
ギュスターヴ・ドレはフランスの画家、彫刻家で、1855 年と 61-62 年にスペインを訪れ、帰国後の 1860 年代には、サロン(官展) に 4 点のスペイン趣味の油彩を出品しており、本作はその中でも最大規模の野心作で、1868 年の出品作である。 |
「スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた」展 |
【展覧会の見どころ】 | |
➀ 17 世紀からゴヤを経て 20 世紀のピカソ、ミロ、ダリ、タピエスまで、約 400 年間のスペイン版画の展開を、作品約 240 点により紹介 | |
➁ 写し伝えることのできる美術メディア=「版画」 により、スペインの文化や美術に関するイメージがどのように形作られ、伝えられていったかを検証する日本初の展覧会 | |
➂ 約 40 か所の国内所蔵先から作品を借用。 日本におけるスペイン版画の収集の現状と版画を通じたスペイン美術の受容を紹介します | |
「スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた」 の展覧会、全 0~6 章の構成。 |
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本展は、スペインの版画の歴史を俯瞰しながら、主に 19 世紀以降それがスペインという国の文化や風俗、そして美術の伝播にどのような役割を果たしたのか、という観点から構成される。 (川瀬佑介 国立西洋美術館 主任研究員) |
'2023 7_3 「スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた」 のプレス内覧会の館内風景の取材と、図録・展覧会パネル、資料などからの抜粋文章です。 |
・画像をクリックすると 「Chapter 2. スペインの 「発見」 / THE “DISCOVERY”” OF SPAIN」 の章のページが大きな画像でご覧いただけます。 |
【 Chapter 1. 黄金世紀への照射:ドン・キホーテとベラスケス | REFLECTING ON TRADITION 】 |
18 世紀半ば以降、啓蒙思想のもとスペインにおいても自国の歴史や過去の評価が始まり、文学においてはセルバンテスの 『ドン・キホーテ』(1605
年前篇、1615 年後篇) が、絵画においてはベラスケスの作品が、古典としての地位を確立します。 これら黄金世紀の二つの金字塔に対し、後世及び他国の芸術家たちはどのように挑み、表現していったのでしょうか。 |
右・No.1-14 オノレ・ドーミエ(1808、マルセイユ―-1879、ヴァルモンドワ) 《 山中のドン・キホーテ 》 1850 年頃 油彩/板 396 x 312 mm 石橋財団アーティゾン美術館 / 中右・No.1-15 オノレ・ドーミエ(1808-1879) 《 ドン・キホーテとサンチョ・パンサ 》 1850-52 年 油彩/板 360 x 520 mm 市立伊丹ミュージアム / 中左・No.1-16 ミゲル・デ・セルバンテス 著(1547、アルカラ・デ・エナーレス-1616、マドリード) 『 機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 』 パリ:アシェット書店、1863 年 書籍(2巻) 441 x 337 mm 国立西洋美術館研究資料センター、東京 / 左・No.1-1 ミゲル・デ・セルバンテス 著(1547、アルカラ・デ・エナーレス-1616、マドリード) 『 いとも著名なるドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと彼の従者サンチョ・パンサの物語 』 ロンドン:トマス・ホジキン、1687 年 書籍 320 x 200 mm 京都外国語大学図書館 テキスト①:作者不詳 「 ドン・キホーテの騎士叙任式/風車に突撃するドン・キホーテ 」 |
・No.1-14 オノレ・ドーミエ 《山中のドン・キホーテ》 ドーミエは 『ドン・キホーテ』 の書籍の挿絵を手掛けることはなかったが、単独作の主題に好んで取り上げ、油彩だけで 29 点、水彩や素描では 41 点もの作品を残している。 / ・No.1-15 オノレ・ドーミエ 《ドン・キホーテとサンチョ・パンサ》 研究者ロートンは、ドーミエのドン・キホーテとサンチョ・パンサを、人間のもつ二つの全く対照的な性格―精神的なものと肉体的なもの―の象徴として、そしてドーミエ本人が自分のなかに内包していた二つの性質―夢を追う理想主義者と地に足着いた現実主義者―の象徴として考えた。/ ・No.1-16 ミゲル・デ・セルバンテス 著 『 機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 』 史上最も広く親しまれるドン・キホーテのイメージは、1863 年にパリで刊行されたこの 2 巻からなる大型本より誕生した。 ギュスターヴ・ドレの原画に基づく、総数 377 点の木口木版の挿絵である。 / ・No.1-1 ミゲル・デ・セルバンテス 著 『 いとも著名なるドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと彼の従者サンチョ・パンサの物語 』 1687 年にロンドンでトマス・ホジキンにより出版されたこの英語版では、《風車に突撃するドン・キホーテ》(cat.1-1-i)は、ドン・キホーテが立ち並ぶ風車を 「途方もなく醜悪な巨人ども」 だと思い込んで突撃していく、よく知られた場面である (前篇 8 章)。 手前には楯と槍を構え今まさに風車に突撃せんとする馬上の騎士が表され、サンチョ・パンサは傍らで膝をついて主人の無事を祈っている。 |
セルバンテス 著 『ドン・キホーテ』 ―芸術家たちは最初は版画やタペストリーで、後には絵画で、その登場人物を描くようになった。 オノレ・ド・オーミエ(1808-1879) 素描、水彩、油彩画で繰り返しこの主題を取り上げている。 ドミーエのこれらの作品の大半は、カマーチョの結婚式に向かうドン・キホーテの絵を 1850-51 年のサロンに出品した後の、1850 年代と 60 年代に制作された(cat.1-14,1-15)。 長身瘦躯の騎士と背が低く丸々と太った従士という対照的な二人が、荒涼たる風景を馬とロバにまたがって進む情景をたびたび描いている。 20世紀の二人の画家パブロ・ピカソ(1881-1973) とサルバドール・ダリ(1904-1989) の 『ドン・キホーテ』 に対する態度の中枢にもまた、冒険の旅を続ける中で主人公が経験する現実との衝突というテーマが存在している。 |
左・No.1-32 フランシスコ・デ・ゴヤ(1746、フエンデトドス、アラゴン-1828、ボルドー) 《 マルガリータ・デ・アウストリア騎馬像(ベラスケスに基づく) 》 1778 年 エッチング 563 x 427 mm(紙寸)、368 x 310 mm(版寸) 国立西洋美術館 / 中・No.1-33 フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) 《 王妃イサベル・デ・ボルボン騎馬像(ベラスケスに基づく) 》 1778 年 エッチング 600 x 430 mm(紙寸):370 x 310 mm(版寸) 国立西洋美術館 / 右・No.1-34 フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) 《 バルタサール・カルロス王太子騎馬像(ベラスケスに基づく) 》 1778 年 エッチング、ドライポイント 385 x 250 mm(紙寸);347 x 220 mm(版寸) 国立西洋美術館 |
左・No.1-32 フランシスコ・デ・ゴヤ 《マルガリータ・デ・アウストリア騎馬像(ベラスケスに基づく)》 1630 年代に造営が開始されたブエン・レティーロ宮には、諸王国の間と呼ばれる大広間が存在した。 ゴヤは、本作を含め、この居室のためにベラスケスが描いた王家の人々の騎馬肖像画をいくつも版画化している。 本作の像主は 17 世紀初頭のスペイン国王フェリペ 3 世の王妃。 国王の肖像と向かい合うかたちで、左方へ馬の歩みを進める王妃の乗馬姿が表されている。 / 中・No.1-33 フランシスコ・デ・ゴヤ 《王妃イサベル・デ・ボルボン騎馬像(ベラスケスに基づく)》 像主は、ベラスケスの主君であった国王フェリペ 4 世の王妃。 ゴヤは版画を制作にあたり、衣服の表面のきらびやかな紋様を奔放な線に置き換え、布地の豊かな重みを陰影によって表現するに留めている。/ 右・No.1-34 フランシスコ・デ・ゴヤ 《バルタサール・カルロス王太子騎馬像(ベラスケスに基づく)》 マドリードの郊外、王家の狩猟地であったパルドの山々を背景に、フェリペ 4 世の息子で王位継承者たる幼年の王太子が指揮杖をもち、馬を御す堂々とした姿で描かれる。 |
ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(1599-1660) ほど、複製版画によって、死後の国際的評価が高まった画家はいない。 18 世紀後半から 19 世紀を通じて、ベラスケスの芸術は幅広く肯定的に受容されていった。 ベラスケスは生前、スペインを代表する画家として国内で認知されていたにもかかわらず、死後 100 年もの間、国外における知名度は低かった。 その原因はいくつもあるが、第一に、彼の作品の多くがスペイン国内にとどまり、またスペインがグランド・ツアーの目的地ではなかった点が挙げられる。 たとえ同地をはるばる訪れたとしても、作品は主に王宮や私邸に収蔵されており、紹介無しには閲覧が不可能だった。 |
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) 1778 年、王室コレクションのベラスケス作品 11 点に基づく版画を制作し、出版した。 これら以外にもほかのベラスケス作品に基づいた版画やデッサンが 10 点残されていることから、ゴヤはより大規模な構想を抱いていたようだが、これらは日の目を見なかった。 ゴヤは公的に支援を受け、イギリスの版画家に提供されたのと同様の便宜を図ってもらった可能性がある。 ゴヤを版画制作へと突き動かしたものは何だったのだろうか、当時 32 歳の芸術家は、宮廷画家としての地位と収入、そして美術アカデミー会員という名誉ある肩書を得ようと焦燥していた。 下級貴族出身で宮廷画家とアカデミー会員を目指したゴヤにとって、身分やキャリアの点においても、ベラスケスは恰好の手本だったのだろう。 |
'2023 7_3 「スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた」 のプレス内覧会の館内風景の取材と、図録・展覧会パネル、資料などからの抜粋文章です。 |
・画像をクリックすると 「Chapter 4. 19世紀カタルーニャにおける革新 / CATALONIA AND THE MODERNITY IN THE NINETEENYH CENTURY」 の章のページが大きな画像でご覧いただけます。 |
【 Chapter 3. 闘牛、生と死の祭典 | BULLFIGHT, FESTIVAL OF LIFE AND DEATH 】 |
スペインの国技とされる闘牛は 18 世紀後半に近代的な形態や理論が確立され、生と死が隣り合わせにある緊張とそのドラマから、賛否両論を巻き起こしながらも長きにわたって大衆の耳目を集めてきました。 |
左・No.3-1-b フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) 〈闘牛技〉11 番《 英雄エル・シッド、別の牡牛を角で突く 》 1816 年 エッチング、アクアティント、バーニッシャー、ドライポイント 286 x 396 mm(紙寸):250 x 350 mm(版寸) 国立西洋美術館 / 左上・No.3-2-b フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) 〈闘牛技〉20 番 《 マドリードの闘牛場でファニート・アピニャーニが見せた敏捷さと大胆さ 》 1816 年 エッチング、アクアティント 280 x 386 mm(紙寸):245 x 357 mm(版寸) 国立西洋美術館 / 左下・No.3-4-b フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) 〈闘牛技〉31 番 《 炎のバンデリーリャ 》 1816 年 エッチング、アクアティント、ラヴィ、バーニッシャー、エングレーヴィング、ドライポイント 285 x 383 mm(紙寸):244 x 353 mm(版寸) 国立西洋美術館 / 中右上・No.3-3-b フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) 〈闘牛技〉21 番《 マドリードの闘牛場の無蓋席で起こった悲劇とトレホーン市長の死 》 1816 年 エッチング、アクアティント、ラヴィ、バーニッシャー、エングレーヴィング、ドライポイント 280 x 389 mm(紙寸):246 x 356 mm(版寸) 国立西洋美術館 / 右・No.3-6 フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) 〈ボルドーの闘牛〉《 二分された闘牛場 》 1825 年 リトグラフ 455 x 610 mm(紙寸):300 x 415 mm(版寸) 国立西洋美術館 |
・No.3-1 フランシスコ・デ・ゴヤ 《英雄エル・シッド、別の牡牛を角で突く》 レコンキスタの英雄エル・シッドの槍が、頭を下げた牡牛の太いうなじの下に突き刺さる瞬間を描いている。 / ・No.3-2 フランシスコ・デ・ゴヤ 《マドリードの闘牛場でファニート・アピニャーニが見せた敏捷さと大胆さ》 〈闘牛技〉のみならず、ゴヤの版画のなかで最も称賛される傑作の一つ。 / ・No.3-4 フランシスコ・デ・ゴヤ 《炎のバンデリーリャ》 通常、闘牛では槍方(ピカドール)、銛打ち(バンデリリェーロ)、闘牛士(マタドール)が順番に登場する。 / ・No.3-3フランシスコ・デ・ゴヤ《マドリードの闘牛場の無蓋席で起こった悲劇とトレホーン市長の死》 本作に描かれた悲劇は、マドリードのアルカラ門近くに 18 世紀半ばに建設された闘牛場で起こった。 / ・No.3-6フランシスコ・デ・ゴヤ 《二分された闘牛場》 ゴヤは、すでにマドリードでリトグラフに触れてはいたが、ボルドーに亡命した後、本格的にその可能性を追求した。 当時のボルドーでは、シプリアン・ゴーロンがリトグラフ工房を開いており、ゴヤは彼の助けにより、18 世紀末にドイツで発明された、この新技術に取り組むことができた。 《二分された闘牛場》 を含む連作 〈ボルドーの闘牛〉 は全部で 4 点の版画からなり、1825 年に 100 セットが印刷された。 牛にとどめの剣を刺そうとする闘牛士が最前景に描かれ、その左奥ではバンデリーリャ(銛) が打たれようとしている。 |
'2023 7_3 「スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた」 のプレス内覧会の館内風景の取材と、図録・展覧会パネル、資料などからの抜粋文章です。 |
・画像をクリックすると 「Chapter 5. ゴヤを超えて:20世紀スペイン美術の水脈を探る / BEYOND GOYA: FINDING THE UNDERCURRENTS OF 20TH-CENTURY SPANISH ART」 の章のページが大きな画像でご覧いただけます。 | |
【 Chapter 6. 日本とスペイン:20 世紀スペイン版画の受容 | JAPAN'S RECEPTION OF SPANISH MODERN PRINT 】 | |
展覧会の締めくくりには、我々日本人がどのようにして同時代のスペイン美術に親しんでいったのか、主に第二次大戦後の受容の過程を、版画作品を通じて振り返ります。 あまり知れていませんが、全国各地の美術館には、ピカソやミロ、タピエスからチリーダ、クラベ、など、驚くほど豊かで幅広い 20 世紀スペイン版画のコレクションが収集されています。 | |
右上・No.5-1 作者不詳 《 メメント・モリ 》 17 世紀 木版 321 x 221 mm(紙寸)、305 x 210 mm(画寸) 国立西洋美術館 / 中下・No.5-12 エミール・ヴエラーレン(1855、サンタマン・シュル=エスコー[ベルギー]-1916、ルーアン)、ダリオ・デ・レゴヨス(1857、リバデセリャ[アストゥリアス]-1913、バルセロナ)著 『エスパーニャ・ネグラ』 マドリード:ラ・レクトゥーラ、 1924 年 国立西洋美術館研究資料センター [ダリオ・デ・レゴヨス 《 御者台からの印象 》 1899(1924) 年 木版 96 x 70 mm(画寸)] / 右下・No.5-23 ホセ・グティエレス・ソラーナ(1886、マドリード-1945、マドリード)著 『エスパーニャ・ネグラ』(裏表紙) 1920 年 書籍 191 x 129 mm 長崎県美術館 | |
「『エスパーニャ・ネグラ』(España negra)」 カタログ 5 章 「エスパ-ニャ・ネグラ ― もう一つのスペイン」 の抜粋文です。 | |
スペインに根付いた風土や慣習それ自体にまつわる一つの見方である。 直訳で 「黒きスペイン」 この言葉は精神面に関わる用例として、「悲観的な姿勢」
を含意する。 従って 「黒きスペイン」 とは暗鬱で重々しく、時に不道徳でもあるスペインの姿を言い表すための語句なのだ。 1899 年の初版と続く
1924 年版において橙色の紙に刷られた 《御者台からの印象》(cat.5-12) はその典型的な例だ。 19 世紀末にベルギー象徴主義の詩人エミール・ヴェラーレン(ヴェルハーレンとも、1855-1916)
とスペイン北部のアストゥリアス出身の画家ダリオ・デ・レゴヨス(1857-1913) が世に出した旅行記 『エスパーニャ・ネグラ(黒きスペイン)』
だった。 そこではこの題名の通りのスペイン観が、旅先で彼らが遭遇した様々な事象によって浮き彫りにされている。 この書籍は同国各地を巡る旅中で得られた印象とその詩的表現であったと概括できる。 歴史性を帯びた 「黒い伝説」 に比べ、『エスパーニャ・ネグラ』 はより芸術的あるいは視覚的な所産に拠っている。 | |
ヴェラーレンとレゴヨスの著作は、後続の芸術家たちに大きな影響を与えていった。 その筆頭に挙げられるのは画家ホセ・グティエレス・ソラーナ(1886-1945)で相違ないだろう。 彼は 1920 年、同じくスペイン各地を旅した際の出来事に基づいて、同名の書籍 『エスパーニャ・ネグラ』(cat.5-23) を出版したのであった。 ソラーナ版 『エスパーニャ・ネグラ』 についてサンチェス・カマルゴは 「田舎町を経巡った彼の小旅行の要約」 と位置づけ、「彼はスペインを歩き回ったのではなく、世界を巡った」 のであって、その世界が 「黒くて歪曲されたもの」 だったと概観している。 レゴヨスらと同じくソラーナも、あえて日の当たる大通りから外れた路地裏を覗くように、人々の暮らしや慣習に潜む暗い側面に焦点を当てていた。 彼の旅は社会の周縁部に生きる人々―貧者、罪人や囚人、正気を失った人、病人―との出会いや陰鬱な光景で満ちている。 | |
「黒い伝説(Ieyenda negra)」 こうした負のスペイン観の存在それ自体はすでに 16 世紀以来の長きにわたる伝統を持っていたということだ。 それは 「黒い伝説(Ieyenda negra)」 と呼ばれる。 「黒い伝説」 は、16 世紀におけるスペイン・ハプスブルク朝の覇権主義への敵対と反発が存在した。 当時 「太陽の沈まぬ帝国」 と称されたスペインの 「大国化の産物」 これの言説であり、同国の周辺諸地域ではその繫栄は 「羨望される一方で増悪の的」 となったのである。 ここに同時代に勃発したプロテスタントとカトリックの対立が加わる。 | |
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) の 「黒きスペイン」 の取り組みは、啓蒙の世紀に生きた彼は、当時のスペインの後進性や告発するような作品を数多く残した。 「人間の諸々の過ちや悪習に対する批判」 を展開した銅版画集〈ロス・カプリーチョス〉(1799 年刊) では陰鬱な異端審問の情景がたびたび登場する(cot.5-4,5-5) 。 それに続く 〈戦争の惨禍〉 と 〈妄〉 (いずれも生前は未出版) でも民衆の妄信や迷妄の揶揄(cat.5-7)、利己的な聖職者への批判 (cat.5-8) が展開された。 ゴヤが観たのは間違いなく、当時彼の周囲に蔓延っていた 「黒きスペイン」 の実像だった。 | |
パブロ・ルイス・ピカソ(1881-1973)は 1936 年 9 月 19 日にプラド美術館はピカソを館長に任命される。 フランコ軍の攻撃に対抗すべく西洋の民主主義陣営の援助を模索する総合戦略の一部であった。
ピカソは熱烈に共和国の主張を支持しており、この時期に発した彼の声明は共和国政府に対する最大の貢献を果たした。 1937 年 12 月、ピカソはニューヨークにあるアメリカ芸術家協議会に向けて
「スペインの芸術的財産が残忍で不正な戦争において損害を受けることなく、無事であるために、私はプラド美術館館長として、共和国の民主主義政府があらゆる必要な手段を講じることを(確約)します。」
と電報を打ったのである。 実のところ、ピカソはこの時まで、政治、政府の問題にほとんど関心を持っていなかった。 クーデターを起こした将軍が戯画で、その敗北と戦争の悲劇が強調され、場面はグロテスクなものから悲痛なものへと移っていく(cat.5-45,5-46)。
ピカソはこの版画作品の売り上げを共和国政府に提供した。 そして、共和国政府への最大にして最も有名な貢献も 1937 年になされる。 《ゲルニカ》
の制作である。 ピカソをプラド美術館館長に任命した美術総局が同作を依頼し、スペインが参加するパリ万国博覧会のパビリオンのホールに巨大な絵画を制作することであった。
共和国政府は再びスペインの悲劇にヨーロッパの世論の注目を集めるためにこのイベントを利用し、イギリスやフランスのような列強の援助を得る目的に役立てようとしたのである。
パビリオン閉鎖後、ピカソは 《ゲルニカ》 を保管し、共和国政府の資金と支援を得るためにヨーロッパ各地とアメリカの展示を進めていった。 | |
1939 年に共和国政府が敗北すると、勝利したフランコ陣営による報復、処罰という危機に直面して、自身の政治的な経歴や労働組合への参加歴から国を捨てざる得なかった者も多い。
亡命者( 50 万人に上る) は幅広く、その明確な亡命動機により、ファシズム全般、とりわけフランコ政権の拒絶をその共通する特徴として挙げることができよう。 | |
1960年代から 70 年代初頭にかけて、フランコ体制への反抗精神を表明するスペイン人芸術家たちが数多く登場するようになる。 反抗の一つの中心地となったのが、文化や政治において長く民族主義的伝統を持つカタルーニャだった。
フランコ当局の目を逃れてマジョルカに居住していたミロ、また、1960 年代はアント二・タピエス(1923-2012) が特筆される。 1975 年、フランコの死とともに民主主義への移行が開始、希望の時代が到来する。 |
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参考資料:「スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた」図録・ 展覧会表示パネル、報道資料、チラシ など。 |
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